そこは小学生から高校生まで、様々な家庭の事情を持つ青少年が、アートを体験し学ぶセンターだった。
校長先生と話をした後、私はセージョが受け持つクラスに連れて行ってもらった。私も子供たちと机を並べて絵を描く授業を受けた。
絵の他にも裁縫を教える先生がいた。
セージョは木工や陶芸も教えていた。また近くの森に子供達を連れて行く日もあった。彼は植物の説明をし、男の子は大きなカエルを捕まえようとし、どこからか来た犬も加わり一緒に散策した。
その町には日本人が来たことはないようで、子供達は初めて見る日本人を珍しがって「魚も生で食べるの?」など色々質問してきた。
私は何か子供たちにお返しできることはないかと思い、文房具屋さんへ行き色画用紙を買い、カエルや鶴や花の折り紙を作って持って行った。
子供達は興味津々で一緒に作った。男の子たちも自分で作った折り鶴を気に入ってくれたみたいで、あちこち持ち歩いていた。なんだか嬉しかった。
子供達が作った陶芸作品の中に、この地方の特産の石鍋と竈門のミニチュアがあった。
ジョアンの奥さんのマーラは、毎日昼ごはんを家族の分と一緒に私の分も用意してくれていた。
最初は遠慮したが、ジョアンもマーラも当たり前だという風で、いつも正午になると「お昼だよー」と声がかかった。
子供が作った竈門は、マーラが豆を煮ていた風景を連れて来た。
私はセンターでも子供たちに混ざって、給食をいただいていた。
私はさしづめ Sempre vivo recebendo (いつももらって生きている)だ。
私の出会ったブラジル人は、大人も子供もいつも自分が持っているものをシェアしようとしてくれた。仲間思いで、その仲間には今知り合ったばかりの人も勘定に入るようだ。ブラジル流の一期一会。
ブラジルは、先住民ルーツ、アフリカ系、ヨーロッパ系、アジア系と多人種が暮らす多文化国家だった。強烈な経済格差や治安の悪さを嘆く声も耳に入った。
私はブラジルの南東部から北部にかけて移動した。大都市では何重もの鍵と有刺鉄線で家を守り、田舎の町では扉に鍵をかけないようなところもあった。
高層アパートの開放的な全面ガラスの部屋から、窓の向こうの青空と遠くまで続くビーチを見た。
小高い丘の上のファベーラを、小さな姉妹に先導され、入り組んだ路地をどんどん進んだ先に、視界が開け、彼女達の家と、眼下の街に落ちる夕陽を見た。
この国は複雑でシンプルで、あらゆる色に溢れていた。どこへ行ってもブラジル流の一期一会があった。
魂に色はないと André Abujamra は歌った。
ナビゲーターは魂とブルーハーツは歌った。
月は何色?明日はどこへ行く?
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