リオデジャネイロから高速バスに乗り、陶芸家たちが暮らす谷がある州の州都に着いた。バスターミナルから市内へ行き、町で情報収集を開始した。

リオデジャネイロの滝でカメレオンから得たキーワードのとおり、なるべく決めないことを決めた私は、明日からの宿も決まっていなかった。
いつもは自炊で節約しているが、新しい街ではその土地の人の作る料理を食べて街と知り合いになって行きたいと思っているので、目に留まった一軒のレストランに入った。

そのお店で陶芸の谷への手掛かりを得られた。
またオーナーも紹介してもらいレストランの2階の部屋を貸してもらえることになった。元々バックパック一個の少ない荷物だったが、それを置かせてもらい、折りたたみの軽量リュック一つに最低限の荷物を詰めなおし、北上した。

まず目的地より少し南にある村を目指した。その村で泊まれるところと行き方を探していたら、運よく部屋を貸してくれる人とその友人も州都に来ていて、同乗させてもらえることになった。
朝出発した車は、夜村に着いた。景色を楽しみにしていたのに、徹夜のせいでほぼ寝て過ごしてしまった。
新しい村に到着後、また情報収集を開始した。村で一軒のパン屋にはいつも誰かがいた。

ある時、古代の壁画が見られるハイキングがあると教えてもらい参加した。そこで画家で彫刻・陶芸もしている友人を知っているという建築家の女の子と知り合った。

ハイキングの途中、草原の中にぼんぼりみたいな背の高い丸い大きな花が咲いていた。
“Sempre-viva”という名前だそうだ。
Sempre(いつも)、viva(生きてる)。いい名前。たぶん常緑植物という意味。

溶岩が固まった岩の大地の上に草原が広がっていた。歩いていくと大きな岩屋があり、その中に古代人の壁画があった。sempre viva, いつも誰かが生きている。



ハイキングの数日後、建築家の女の子ファビアナの住む家に使える部屋があるということでそちらに移った。そして画家の友人が住む街へ連れて行ってもらった。そこは300年ほど前に入植者が住み始めた古い街だった。

そこで私はジョアンと出会った。
ジョアンは、その街の色と同じレンガ色の髪をしていた。静かな佇まいで、ファビアナと私に、キャンバスに描いた絵、木彫りの彫刻、石彫、陶芸と家の内外にある彼の様々な作品をひとつひとつ見せてくれた。

大小様々なキャンバスには、ブラジルの日々の暮らしの情景、アレイジャジーニョ* の肖像画や教会が描かれていた。
ソープストーン** を削って作った作品もあちこちに置かれてあり、裏庭の石彫群はペットの鶏たちのとまり木になっていた。
家の裏の小川を渡った場所にはバナナ畑があり、その奥に陶芸窯が作られていた。粘土は家の近くで採った土を濾過して作り、染料は庭で取れる木の実を潰したら赤色がとれた。
家の庭に開放的な青空アトリエがあり、ガソリン式発電機から配線されたテーブルソーと、革ベルトで回転するろくろがあった。それらは全てジョアンが自分で作ったものだった。
*1「障碍者さん」「小さな不具者」の愛称で親しまれたブラジルの植民地時代の建築家で彫刻家
*2 この地方で採れるの石で、伝統的な郷土料理に欠かせない石鍋や、リオのコルコバードの丘のキリスト像などに使われている






その街は私が目指す谷からまだ少し南だった。
だけど、ここじゃないか?
私が探していた場所はきっとここだ、と思った。
ジョアンは私が彼のアトリエに通うことを心から歓迎してくれた。
ブラジルに来て三ヶ月、私はまだ片言のポルトガル語しか話せなかった。私たちのコミュニケーションは不完全だったが、たとえ同じ母語を話す者同士でも起きるとは限らない、理解の瞬間が何度かあった。目に見えない様々なことを交換できた貴重な時間だった。
ジョアンのアトリエでの日々は、私に作ることに没頭することを思い出させ、やっぱり手で何かを作っている時が一番幸せだという感覚も思い出させた。




一ヶ月近く経ったある日、毎日止まることなく無心に動いていた作業の手が止まり、ふと散歩に出かけようと思った。
坂道をもくもくと登って行ったら、子供達がたくさんいた。学校のようなところに着いた。